@龍樹の立場 |
般若経を書いた修行者は、瞑想の中で観たものを直感と比喩で書くのみであった。これは分析的、論理的な言葉による思惟ジナナに対する瞑想による直感的、直証的、総合的に究極の真理を得る智慧、プラジニアによる反論です。これではジナナとプラジニアとの対立で、議論がかみ合わないものがあります。龍樹はお釈迦さまの瞑想を修行した聖者です。同時に分析的、論理的思惟ジナナにもすぐれた能力をもつ修行者でもありました。
龍樹は、説一切有部のジナナによる実在の哲学に対して思惟と言葉、ジナナで対決したのです。 |
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A龍樹のお釈迦さまに対する帰依 |
龍樹は実在論(有の立場)と虚無論(無の立場)が共に否定された「中」又は「中道」の立場から、ものの真のあり方を説く「中論」を書きました。
中論とはお釈迦さまの悟りの内容である縁起の法を、中の見地から空であると説かれたものです。そして「中論」の冒頭の帰敬偈で、空のオリジナルはお釈迦さまにあると宣明している。
「滅びもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来りもせず、去りもしない依存性(縁起)は、言葉の虚構を超越し至福なものであると仏陀は説いた。その説法者の中の最上なる人を私は礼拝する。」 |
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B空の論理と相依性 |
中論は中の立場から説く縁起であり実在論を空の概念で徹底して否定して論証したため「空の論理」と云われた。実在を徹底して否定したため、実在の反対概念である虚無を主張する虚無論者であると批判された。しかし空の論理は実在、虚無を共に否定するもので、その批判はまったくあたらない。
空は縁起と同意義の存在論として語られます。これは龍樹が空を論証して、縁起の概念に相互性(相互依存関係)と云う要素を加味して再構築したためです。ここに龍樹の偉大な功績があったと云われる(上田義文教授)。ただし相互性という要素は、縁起の法に当然の論理として含まれていたと考えるべきでしょう。それまで誰も気付かなかったお釈迦さまの論理に、プラジニアを修得した龍樹が、ジナナの思惟によって指摘したと云う事です。 |
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C龍樹による実体(実在、本体、自性、本質的存在)の定義 |
実体は他に依存する事は有り得ず、他に依存して生じたり滅したりしないから自立的です。実体は変化する事なく永続する。永続すると同時に絶対に変化する事がない。一つのものに本質が二つあることはない。本質が複合体だと云うのは有り得ないから単一です。
つまり実体を次の三つの要素をかかげて定義したわけです。
自立的である。
恒常不変である。
単一である。
事実の世界に存在しているものは次のとおりです。自立的でなく縁起したもの(相互依存関係で生起する)です。恒常不変でなく変化するものです。単一でなく複合的です。従って事実の世界では実体のあるものは一切存在しないのです。もしあるとすれば、それは言葉の世界だ、と龍樹は説いたのです。 |
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D言葉の虚構性 |
「私達の判断が成り立つためには言葉の多様性が必要になる。言葉の多様な意味や概念に基づいて判断や推理を行う。判断や推理には価値判断が伴う。その価値判断に私達は愛着し、執着するから煩悩を生じて行為を行う。そして生死流転する。だからそれを逆に断ち切っていけば、私達は解脱する事になる。」※
人は言葉で考えます。言葉があれば、それに対応するものがあると考えます。しかし、言葉は決して事物の真相に対応したものでありません。事物の真相から言葉が引き出されたものでない。龍樹は、こうして空の論理で実在説を否定して、仏教をお釈迦さまの縁起の法へ回帰させていったのです。
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