Ⅷ 般若心経の完成
(1)大樹   仏教は良く繁った大樹にみたてられます。
 地中に深く広くはった根に支えられ、どんな天変地異にも微動だにしない大樹です。幹は縁起の法、つまり空です。四方に大小にのびた枝は経典類で、葉は経典類に書かれた無数の教説です。
 その教説はお釈迦さまの悟りを語るものがあれば、逆にその否定につながるものもあります。お釈迦さまの教えをスユラ哲学的に複雑に説くものがあれば、簡明に実践的に説くものもあります。教団の運営や修行者の規律を定めたものがあれば、在家信者の信仰生活の拠り所を説くものもあります。大小の枝と葉は、このように仏教の真理と真理にそぐわないもの、高尚なものと通俗的なもの、修行に関するものと信仰生活に関するものなど、あらゆる事柄を包含している。それでいて、異端として伐採されたり、幹からの樹液を止められて枯れる事がありません。
 その原因はこの大樹の幹の本質にあります。この幹の本質は実体を否定して、物事の全ては相互依存の関係で生成消滅する事にあるからです。本質の全容はプラジニアによってのみ明らかにされるものです。どんなに高邁な分析的論理的な思惟、つまりジナナによってもその全容を明らかに出来ないものです。なぜなら、思惟の結果、言葉にされた概念はそれ特有の価値判断によるもので、虚構を含むものになるからです。つまり空を言葉をもって語る事は、特定の価値判断に基づく言葉の多様性により概念の多様性を生み、様々な教説を生む事になるのです。
 だから仏教においてはお釈迦さまの悟りの本質をふまえて他と比較して学ぶと云う事は非常に大切な事になる訳です。
(2)般若心経の完成  こうして枝と葉は、時代と共にますます繁みを増して幹が隠され、仏教の本質、お釈迦さまの悟りの内容が見えなくなる可能性が出てきます。説一切有部の実在説を克服した大乗仏教は、般若経以後、様々の経典を生みました。
 こうした大乗経典が続々と誕生する中で、お釈迦さまの悟りの内容が、大小の枝と無数の葉の中に埋没するのを恐れる修行者がおりました。彼等はプラジニアの智慧により、お釈迦さまの真意を良く知る神秘的修行者でした。彼等は空の本質を、時代の変容に影響されずに、全ての仏教者に伝えられる仕組みとしてのお経を考え完成したのが般若心経なのです。
Ⅸ 般若心経の解説
(1)般若心経を起承転結に分解する  起承転結とは元々は漢詩の句の並べ方ですが、通常は文章の構成や物事の順序を云います。起で主題を提示し、承で主題の要点を説明する。転では主題の要点を別の角度で論じて、結では提示された主題に関する結論で結ぶ。
 私は、般若心経を起承転結に分解し、かつ承転結を一節と二節に分けました。二節は一節を強調していると考えるからです。
 般若心経をこのように解釈出来るのはお釈迦さまの縁起の法について重大な論争があり、その論争の結果としてお釈迦さまの真意が正しく継承される事になった歴史的経緯が含まれると考えるからです。
(2)般若心経
摩訶般若波羅蜜多心経

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
一節 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想
行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄
不増不減
二節 是故空中
無色無受想行識
無眼耳鼻舌身意
無色声香味触法
無眼界乃至無意識界
無無明亦無無明尽 乃至 無老死亦無老死尽
無苦集滅道
一節 無智亦無得 以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 
究竟涅槃
二節 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 得阿耨多羅三藐三菩提
一節 故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪
是無等等呪 能除一切苦 真実不虚
二節 故説般若波羅蜜多呪 即説呪白 羯諦 羯諦 波羅羯諦
波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経
①経題、摩詞般若波羅蜜多心経
 摩詞はサンスクリット語「マハー」の音写で「大いなる」とか「偉大な」などの意味です。
 般若波羅蜜多は「パンニャ・パラミッタ」の尾音写です。般若はパンニャ、つまりプラジニアで智慧の事、パラミッタはチベット語訳では「彼岸に至る」とされるが、サンスクリット語では「完成」を意味する。
 心経の心は真髄を云う。
 以上のことから経題は次の意味になります。
 「大いなる智慧の完成の真髄を説くお経」
②起  般若心経の主題の提示で、お経としての全体像を明示している。
 観自在菩薩は修行者としてのお釈迦さまを暗示している。行深般若波羅蜜多時とは「智慧の完成を深く行じていた時」ですが、より具体的に云うと「智慧を完成する瞑想を深く行じていた時」で、その時五蘊は全て空であると悟り一切の苦しみとわざわいから救われた。
③承 一節  色とは五蘊、色受想行識の色です。初期の頃は肉体を意味していたが、この頃は肉体を含む物質全てを含む意味になっていました。空はこれまで述べてきたように存在の原理は、相互依存関係の中での生成、消滅するのみで、実体となるものは存在しない事です。 
 後段の「是諸法空相」の諸法とは諸々の存在の要素と云う事で、説一切有部が主張する実在する七十五種の要素を意味します。また不生不滅は龍樹が空の定義に表現した八不の内の最初の二不、不生不滅をもって、全体の八不を表現している。その上で、八不にない四つの不、不垢不浄、不増不減を加え、空の意義を強調している。
④承 二節 ここでは説一切有部の実在の論理、「五位七十五法、三世実有・法体恒有」の骨格をなす、五蘊、六根、六境、六識を「無」と否定する。又「三世両重の因果説」としての十二支縁起の実在説を「無」と否定すると同時に、縁起の十二の条件である十二支そのものは迷いの世界では尽きる事がないと説く。そして最後に説一切有部の実在説の論理のもとでは四聖諦も成立しない、と説かれている。
⑤転 一節  般若心経を起承転結に分解するとすれば、この「無智亦無得以無所得故」が転の冒頭になると私は考えました。
 「無智」の智とは説一切有部のジナナの智です。仏道修行の最終目的は悟りを得て輪廻転生の輪から解脱する事にあります。「無所得故」とは「無得」を強調し、智にはそうした悟りと解脱と云う成果を生む力のない事を説いている。「無有恐怖」の恐怖とは終わりのない苦しみの根源である輪廻転生に対する恐れです。「遠離一切顛倒夢想」の顛倒夢想とは実在説と云う真理からまるで顛倒した論理と、その論理に基づく夢想のような教説です。
⑥転 二節  三世諸仏」とはプラジニアの瞑想の中に現れる時空を超えた過去、現在、未来の仏(悟った人)です。「得阿耨多羅三藐三菩提」とは「無上正等覚」つまり「この上なく正しい完全な悟り」の意味です。
⑦結 一節 「是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪」
 「是れはおおいなる神秘の呪です。是れはおおいなる智慧の呪です。是れは至高至上の呪です。是れは万物無比の呪です」。この内の一つの呪の形容だけでも大変な賛辞ですが、それを表現を変えて四つも重ねている訳です。
 呪は論理としての言葉でなく、神秘的な啓示であると云われます。呪は神秘的な体験をもつ者にのみ真の意義を開顕し、そうでない者には全くの無意味な言葉とされます。そして又、呪は師から直説に伝授されてのみ意味をもち、そうでない場合、言葉上の意味を分かっても、何の意義をもたないとされます。
 しかし般若心経の呪は神秘的な体験と師の有無に関係なく全ての人々に公開されています。ここにこの呪の特異性があります。さらにこの呪は空に関する人々の宗教的境地を五つの段階に分けており、その五つの段階の人々の救済を網羅していると云われます。

  <呪>      <訳>        <宗教的境地>
  ギャテー       行け          第一段階
  ギャテー       行け          第二段階
  ハラギャテー     彼方へ行け       第三段階
  ハラソーギャテー   完全に彼方へ行け    第四段階
  ボージソワカ     悟りの境地へ行け    第五段階

  最初のギャテーは真理への入門で空について無知な段階。第二のギャテーは空への理解(言葉としての理解)が進んだ段階。第三のハラギャテーは宗教的境地を高めて修得される段階で、空を直接的に心で感得する段階。第四のハラソーギャテーは修行がさらに進み、より奥深い真理を感得する段階。第五のボージソワカは魂の救済、つまりあらゆる無知が完全に取りのぞかれた悟りの境地の段階。
 一つの文章で示すと次のようになると云う。
 「この道を辿って、行け、行け、彼方へ行け、完全に彼方に行け、悟りの境地へ至れ」
 般若心経の呪がこのような意味だとすると「ギャテー、ギャテー」の二段階まではジナナの思惟の段階でしょう。そして「ハラギャテー、ハラソーギャテー、ボージソワカ」はプラジニア、つまり般若の智慧の段階と云う事になります。
 般若心経を完成させた神秘的修行者は、無知なる者、ジナナの思惟により空の論理を修得した者、そしてプラジニアの智慧により空の真理への道を辿る者を三つの段階に区分し、修行の道を示したものなのでしょう。
 又、般若心経を読誦したり写経する事による功徳は、お釈迦さまに畏敬の念をもち信じて行うによるか否かによると云われます。
 このように般若心経と般若心経の呪は、帰依心のある無知の人から悟りに至った全ての人に対応した世にもまれな存在と云えるでしょう。
⑧結 二節  「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」
 「ギャテー、ギャテー、ハラギャテー、ハラソーギャテー、ボージソワカ」