U 仏教経典の中での般若心経の位置

(1)般若心経の位置  般若心経は仏教経典の真髄を示すもので、全ての仏教経典の要です。
(2)小乗仏教(部派仏教)又は原始仏教と大乗仏教  般若経で空を説きはじめた修行者は自らの教えを大きな乗り物、すぐれた乗り物の意味で大乗と初めて名のりました。それまでの教団はもっぱら自利(自分のみの救いとしての智慧)を説いたのに対して、他利(他人の救いとしての慈悲)を説いたからです。そして旧来の教えを小乗、つまり小さな乗物、おとった乗物と貶称しました。しかし現代では小乗仏教は単なる貶称なので、部派仏教とか原始仏教と云われます。
(3)部派仏教又は原始仏教の経典(阿含経典)  部派仏教の特徴は阿含経典(アーガマ。伝承の意味)を仏説とする点にあります。阿含経典はお釈迦さま直説とみなされる教説を伝承されているからです。
 阿含経典は4つないし、5つの経典群からなります。その内容はお釈迦さまが説かれた深遠な真理である縁起の法、縁起の法に基づく修行や教えなど多岐にわたるものです。
 キリスト教の聖書とはイエス・キリストとその直弟子達の教説をおさめた書物です。そうした意味では阿含教典は宗祖であるお釈迦さまの教説をおさめたものだから、仏教の聖書に相当する書物と云えるでしょう。ただし問題があります。
 阿含経典も後世なると、最初のものに内容を付加したり、削除されたり、解釈が変わったりしているものが多く含まれているからです。
 現代の仏教学の主要な課題は阿含経典をお釈迦さま直説のものに修復する事にあると云われます。こうした研究の日本での第一人者と云われるのが、東方学院創設者の故中村元先生です。中村元先生の「原始仏教」(阿含経典)などはまさに仏教の聖書と云えるでしょう。
(4)大乗仏教の経典  大乗仏教の最初の経典が般若経です。
 般若経の作者達は、お釈迦さまは全ての実在を否定したと主張、その理法を空と表現しました。龍樹はその主要な著書「中論」で直感と比喩のみで語られる、般若経の空について、「実在(有)でもなく、虚無(無)でもなく、空なのだ」という「中」の論理をもって「空の論理」を完成した。この空の論理が、般若経以後誕生した全ての大乗経典の基層となりました。
 そんな事もあり龍樹は日本仏教のすべての宗派の祖を意味する「八宗の祖」と称され、いずれの宗派にも祖師として尊敬されています。

V 中国仏教の教相判釈と五時教判
(1)南伝仏教と北伝仏教  お釈迦さまが入滅されて百年後、教団の規則(律)の解釈の違いで対立が起こり、上座部と大衆部に分裂しました。上座部の上座とは教団内で尊敬される長老の比丘の事です。上座部は教理と戒律ともに伝統を重視する集団です。大衆部は教理の解釈や戒律の運用において自由主義的集団でした。
 この分裂の直前、アショーカ王の子マヒンダがスリランカに仏教を伝えた。スリランカでは上座部仏教が成立し、今日に至るまでパーリ五部と云われる阿含経典が保存されている。その後東南アジアに広がったこの仏教を南伝仏教と云います。一方、仏教はインド本国から北西インドに伝わり、中央アジアを経て、南伝仏教より数百年遅れて紀元後一世紀に中国にもたらされた。これを北伝仏教と云う。
(2)「如是我聞」(私はかくの如く聞いた)   @阿含経典(部派仏教経典、又は原始仏教経典)の如是我聞

  お釈迦さまの時代、伝達の手段としての文字に対する評価が大変低いので、聖なる教えを文字にして記録する考え方がなかった。そこでお釈迦さま入滅後、教えを正しく記憶して散逸を防ぐための結集が行われました。
  結集とはお釈迦さまの教えを弟子達が誦して互いの記憶を確認しながら、合議の上で聖典を編集する集会です。
  結集において弟子達は、当然の事ながら、「私はかくの如く聞いた」として内容を誦した。このため「如是我聞」を経典の冒頭に記する方式が経典の形成として定着していきます。
  A大乗仏教経典の如是我聞

   最初の大乗経典は般若経です。般若経誕生後も、龍樹によって空の論理が集大成された後にも多くの大乗経典が誕生した。お釈迦さま入滅後数百年後に誕生したそれらの大乗経典も、阿含経典と同じように冒頭「如是我聞」が記されています。
  これは次の理由によると云われます。大乗仏教の先駆者となったのは、神秘的瞑想を行ずる一群の修行者でした。彼等は瞑想の中で、あるいは夢の中で、仏(悟った人)と会い、また空中から仏の声を聞いた。この体験は現在、十方世界に存在する諸仏が、すべての人は大乗の修行を追求する事により、無上にして完全な悟りを得て仏になる事が出来ることを保証していると理解されたのです。この体験により、お釈迦さま入滅後数百年経って誕生した経典も仏説と受け取る態度が可能となり、如是我聞を経典冒頭に記する形式を踏襲するに至ったと云われる。
(3)中国への仏教伝播  中国へ紀元後一世紀頃仏教が伝播し、紀元後二世紀ころから仏教経典は漢訳され始めました。ところが中国へは経典成立の時期的順序に関係なく伝えられた。しかも部派仏教の阿含経は勿論、大乗経典もその冒頭に「如是我聞」とあります。このため中国では、伝えられた経典は全てお釈迦さまが成道されてから、入滅されるまでの四十五年間に説かれたものと誤解されたのです。
(4)中国における教相判釈と五時教釈  @教相判釈
  中国では、経典は全てお釈迦さまが説かれたとの理解のもとに、中国仏教独自の経典解釈学、教相判釈が発達する事になります。教相判釈とは伝来した諸経典の内容と成立の時期、その順序次第を解釈して、経典の根本真理と仏道修行の究極目標を確立しようとする学問です。
 A五時教判
  教相判釈で有名なのが慧観の五時教判、中国天台の智が説いた五時八教です。ここで五時とは当時中国に伝来していた全ての教典をお釈迦さま一代の説法として五つの時代に分けたものです。
  @ 華厳時(華厳経)
   華厳経はお釈迦さまが成道された時の深甚微妙な真理を説く高度な大乗仏教経典
  A 阿含時(阿含経)
   阿含経は真理の一面のみを説く程度の低い経典
  B 方等時(維摩経、勝鬘経など)
   大乗仏教の入門的な教え
  C 般若時(般若経)
   大乗仏教の上級者の教え
  D 法華涅槃時(法華教、涅槃経)
   お釈迦さまの真意を表す最も勝れた完全なる教え
  お釈迦さまはまず奥深い悟りの内容を説かれたがそれが華厳経で、この時代が華厳時です。しかし華厳経はあまりに深甚微妙で弟子達に理解されないため、内容を初歩的なものに落として説かれたのが阿含経で、この時代が阿含時です。弟子達の成長に合わせて教えを方等の時代、般若経の時代と徐々に内容を高めていって最後にお釈迦さまの真意として説かれたのが法華涅槃経で、この時代を法華涅槃時とした考え方でした。

   この五時教判が中国仏教最大の特徴で日本仏教は今もってその影響下にあると云われます。お釈迦さまの直説の阿含経典はこの教相判釈によって仏教史の片隅におかれた訳です。日本においては明治中葉になって、サンスクリット語による仏教学研究が進んでいた西欧に留学した学僧の研究により明らかとなり、阿含経典は原始仏教経典として復活してきました。それが今日、中村元先生など多数の専門家により、研究が進んできている訳です。